御挨拶と当館のあゆみ

ご挨拶
日向灘に面した宮崎は、四季を通じて山海の食材が豊富にございます。
マンゴーや生ライチ、宮崎牛や地鶏、日向灘の伊勢海老等々、宮崎には多くの名産品がありますが、温暖な気候のため、全国に先駆けて入手できるのが強みです。
先代から五代目を引き継いた後、献立を固定せず料理の構成に変化を持たせる日々を重ねてまいりました。料理、器、部屋のしつらいまで、お客様に豊かな時間を過ごしていただきたいと願いますが、その挑戦は私自身の楽しみでもあります。

御料理 魚安 渡邊 博俊
渡邊博俊経歴
魚安の長男として宮崎市に生まれる。
上智大学・法学部法律学科卒業後、東京で航空会社PR誌を経て、新聞社週刊誌の編集者として全国を取材。
1988年、先代急逝により、宮崎市に帰郷。独学で料理修行を始める。現在、調理師、宮崎県ふぐ処理師、法学士(1989年より、宮崎調理製菓専門学校で衛生法規、食文化概論を教える)。2018年より茶道表千家地方講師。
合資会社魚安・無限責任社員

当館のあゆみ

「赤江城ケ崎は撞木の町よ 鐘がなければ通られぬ」

宮崎市の中心を流れる大淀川。
その河口、赤江・城ケ崎地区は、江戸時代、港町としてにぎわっており、お金がなければ、通られないほどの繁栄ぶりだったそうです。
当館は、その地に明治28年(1895年)、船宿として創業しました

明治 創業のとき・・ 大淀川を千石船が行きかった頃

宮崎市の中心を流れる大淀川。その河口に位置する赤江・城ケ崎は、藩政時代から明治にかけて、遠く大坂をはじめ、関西各地へ物資の集散地として、宮崎一の賑わいを見せていたといいます。上流の荷を積み込んだ千石船が、大淀川を往来していました。当館は、その地に明治28年(1895年)、船宿として創業しました。
県内で一、二を競う港町でしたが、台風による大雨のたびに土砂が積り、次第に港湾としての機能を失いました。そのため、街の中心も現在の橘通りへ移っていったといわれています。

大正から昭和へ・・ 人々で賑わった太田町界隈

時代の変遷とともに、宮崎市の街の中心も変わりました。当館も、大正時代には赤江の本店に加え、宮崎市の流通を支える橘橋のたもとにも出店し、川魚料理と仕出しの店を営みました。
昭和6年、現在地(太田町)に赤江の本店を移しました。当時、屋形舟を浮かべ、お客様に喜んでいただいたそうです。
「魚連(ぎょれん)」の名前で親しまれていた、宮崎一の魚の卸売市場があった場所も、当店から東へ100メートルほどの近所でした(注:昭和52年、宮崎市の海側宮崎市新別府町に開場し、現在、県内の魚や野菜などが集まる宮崎市中央卸売市場となる)。その頃は検番もあり、通りには賑やかな三味線の音が響いていたそうです。
近隣には製材所も多く、地名も材木町といいましたが、当店近くに映画館、食堂、銭湯も立ち並びました。

戦時下の悲しい記憶・・ 壮行会の宴席も

太平洋戦争中、南方への攻撃拠点として南九州がその地に選ばれたのは、周知のとおりですが、その基地として赤江飛行場(注:昭和20年3月の空襲で爆破。現在の宮崎空港)が設置されました。出撃前に戦地に赴く兵士の壮行会が、当館でも行われていた時代です。
戦局が悪化するにつれ、赤江飛行場から飛び立つ若い兵士の宴席も目立ったといいます。「戦時下、物資のない時代、会食の代金をお米で頂戴していた」「牛肉がないため、猪肉を使っていた」という戦争中ならではのエピソードが残っております。

戦後 当店正面。昭和28年頃 高度成長期 中庭の池 月見台の奥には60畳敷きの広間が

高度成長期 ホテル時代はプロ野球球団の宿舎に

昭和30年から40年代の高度成長期は、宮崎が観光地として全国に名を馳せた時代です。その頃、40室の和室を持つ旅館、その後、ホテルとして営業しました。当館に見えた新婚さんや修学旅行の生徒さんが、今でも「懐かしい」とお越しになります。
プロ野球やJリーグのキャンプ地として、毎年2月には多くのファンが宮崎市を訪れますが、最初にキャンプ地として宮崎市を訪れたのは“近鉄”です。“近鉄パールス”と名乗った昭和20年代後半には、当館が一軍宿舎としてご利用いただきました。スポーツキャンプの先駆けでしょうか。

高度成長期 昭和50年代のホテル時代 遠浅の青島海水浴場(魚安パンフレットから) 魚安屋上からの大淀川の眺め(魚安パンフレットから)

そして、現在

船宿から川魚料理、仕出し、旅館、ホテル、そして日本料理店へ。
屋号に魚を戴く店として水辺での生業を続けながら、時代に即して私どもは営業の形態を変えてまいりました。

魚安 玄関 魚安 山祇

時代の変遷と共に周りの風景も変わりましたが、お客様に御満足頂きたいと思う気持ちは、いつの時代も同じです。

GOAISATSU
Miyazaki facing Hyuganada is situated in the mountains and the sea food is abundant throughout the year.
Strength is not only Miyazaki beef and chicken and mango, there are a number of specialties, above all because of the mild climate, is also available across the country ahead.
I took over the fourth generation from the predecessor, but only a quarter of a century, the cuisine is not fixed menu was also a daily challenge.
I hope to stick with a cuisine and decor of the room, and I would like you to spend time rich,Encouraged by your smile,There is actually my own fun.

ONRYORI UOYASU Hirotoshi Watanabe
渡邊博俊Career
In 1958, as the eldest son born in the city of Miyazaki UOYASU.
After graduating from the Faculty of Law, Department of Law, Sophia University, through the airline magazine PR in Tokyo, covering the whole country as an editor of the weekly newspaper.
1988 Preceded by sudden death, returns home Miyazaki. Began his training on his own cuisine. Currently, cooks, treated blowfish Miyazaki, Bachelor of Law (since 1989, teaching in the College of Health Regulations confectionery cooking Miyazaki).
Unlimited liability joint-stock company employees UOYASU.